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【 現代人にとって『問う』意義 】

 

現代は「考え」なくても生活することができる時代です。

我々は昔と比べ、苦労せず情報が入り、快適な生活環境の為の道具や仕組みを享受しています。その結果「考えず」スピーディーに物事を進められるようになりました。いわゆる進歩により「便利」な生活を手に入れたということです。

それは一見生きる選択を増やし、人間の可能性を広げたようにも見えます。

しかし現代を「便利」でなく「安寧と幸せに生きる」を軸として考えてみると少し事情は変わります。実は生きる選択や可能性を狭め、進歩しているとは言いきれないのではないかと感じます。

情報や道具そして仕組みは、それらを無条件に受け入れるからこそ享受されるものです。その「無条件」さは、自ら「考える」ことや「感じる」ことを鈍らせる要因にもなります。

今、社会全体が「考えず行動しない」方向にいっているように感じます。それは考えられないものは見えないようにし、行動しないものは知ろうとしないことでもあります。その思考の果ては、自らの判断に合致しないものの無視や排除ではないでしょうか。

さらに「考えず行動しない」は自分への探究を放棄してしまうことでもあります。それは自分という存在を自分で認める機会を逃し、無視や排除していることに他ならないのではないのかとも思います。

本来の私は、テクノロジーや規則に制限され翻弄され続けている存在ではありません。37兆個の細胞と、206個の骨と、約600の筋肉と、約30の内臓と臓器、150グラムの脳が、一瞬一瞬、豊かで機微を持って奇跡的に活動して生きている存在です。

豊かさや機微を、私の持つすべての感受を持って丸ごと受け止めること。すべての感受とは、人間が作り出した知識や技術で制限されたものではなく、私から沸き出る感覚・感情・想い・思考の全て。その丸ごとを発動し探究し続けること。それこそが人間にとって唯一の本質的な安寧や幸せへの道なのです。

仏教は「生きる」ことを「問い」続ける宗教です。決して「悟り」という物語を完成させるものでも、人生の答えをサラリと教えてくれるものでもありません。

仏教は、自分と深く寄り添う方法、探究する為の智慧を、知識と実践の両面で示唆してくれる教えです。

そして仏法は、自らの本質を深めるための触媒です。触媒であるが故に自らより「問い」「深める」ことがなければ、本来仏法が発動されることはないのです。

自分という存在を探究し続け、自分と関わる他者や自然との関わりを探究し続ける。そして探究すればするほど見えてくる世界の豊かさ、感じられる畏怖や敬虔。それがそのまま自らの安寧や幸せ。さらに全ての他者、ご先祖、自然への尊重になる。

本来仏法とは、自分への本質的な洞察を促し、生きる意味と役割を全身で感じさせ、迷いなく生きる原動力となり、安寧で幸せな生き方に導かれていくための教えなのです。

仏法を深めることで、
○自分という存在は、自分以外の存在と共にあることが実感されます。
○世界という存在は、過去現在未来の時間感覚上にないことが知覚されます。

その世界の中で、私らしく生きるのではなく、世界から問われる自分をどう生きていくかを感受し実践していくのが仏教の智慧です。

是非「問う」ことで、普段は知識に阻害され、情報や道具そして仕組みで見落とされている、自分の「本質」を見つけ続ける人生を築いていって下さい。そこで本質を見つける触媒となる仏法を是非ご活用下さい。

最後に世界的思想家
禅僧ティクナットハンの教えにある
「仏教の役割」をお伝えさせていただきます。


〇Who I am?
(私は誰なのか)
〇Why I am here?
(私はなぜここにいるのか)
〇What do I want to do with my life?
(この人生で何をしたらよいのか)
これらに道筋をつけるのが仏教である。

本質を感じられれば生きるのがもっと楽しくなっていきます。

本質を知れば心と身体はもっと健康になっていきます。

本質が見えれば世界がもっと安らかで緩やかになっていきます。

よりよき自分と世界を作るべく、今こそ問いを深め、自分と世界の様々なことを共に研鑽できればと願います。

zafu代表 藤井隆英 拝

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